発見されて600年が経つ古き日奈久温泉は
現在泉源が16あります。泉源深度は地下
100m以内と浅く、湯量が豊富で温泉宿の
ほとんどが“かけ流し”の湯。
泉質はアルカリ性単純泉で関節痛、神経痛、
冷え小などに効くと言われています。
陶器には特産の晩白柚風呂が楽しめます。 |
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足利尊氏が政権を執った南北朝時代。
肥後守に命ぜられた甲斐重村(尊氏方)と菊池武重(南朝方)が戦い重村が敗北。
部下の浜田右近は傷を負いながら日奈久の近くへ辿りつきました。右近は日奈久へ
移り住み、やがて村の娘と結婚し、子・六郎左衛門に恵まれます。六郎は永い間
父の刀傷の平癒を安芸の厳島明神に祈り続け、満願の日、神のお告げがありました。
お告げに従って海の浅瀬を掘ると温泉が湧き出しました。時に応永十六年(1409)。
今から約六百年前のことです。
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お告げで発見された温泉で、刀傷が
治った日奈久の温泉は湯治の客が
日増しに多くなり、まちには人が集
まりました。「神様をお祀りしよう」と、
村人は市杵島姫を祀る祠(弁天社)
を建立。温泉の神様は日奈久の人に
崇められ護られ続け、現在にいたり
ます。後に六郎神社も同じ境内に移り
ました。温泉神社のすぐ下は下湯 |
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の温泉センター、六郎温泉発見の場所です。昔はそこまで海がせまっていました。
町並みが海の方へ広がる様子が見下ろせます。 |
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| 秀吉が日奈久温泉を通った頃、温泉は干潟に湧いている程度でしたが、天下が平定され、江戸幕府ができ、日奈久の海岸沿いも参勤道として薩摩街道が整ってきました。温泉は島津公も参勤往復の憩いの湯として愛用されました。細川藩は明暦三年(1657年)温泉浴室を大改築し、大規模な藩営の温泉場が出現します。藩主が入浴する「御前湯」士分のための「お次ぎの湯」平民のための「平湯」の三つの仕切りをつけ身分に別けた浴槽で、画期的なものでした。幾度も大火、復興を繰り返し、明治になって藩の直営を離れ御前湯、お次ぎの湯は有料、平湯は無料となりました。
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現在の薩摩街道 | |
海の干潟の中で発見された温泉は、孝子物語とその効能の二重効果で噂は噂を呼び、浜辺の日奈久はみるみる温泉の町と変貌していきます。明治に入ると宿も増え名士たちも「どこよりも日奈久」とやってきます。門司八代間に鉄道ができ、日奈久港には定期船が着き、人力車や乗合馬車が往来する活気ある日奈久温泉には当時十五軒ほどの宿がありました。放浪の俳人、種田山頭火が訪れ、この地を絶賛したのは昭和五年(1930年)のことです。その後日中戦争(昭和十二年〜)時でも旅館は陸軍病院の保養所となり、日奈久温泉は愛され続けました。 |